約350年前からある浄土真宗のお寺です。

現住職は第15代目になります。

堀村の今昔(1)


新堀城の所在地


 尻啖え孫市

 新堀城は、本願寺門徒として紀州雑賀党を率い、織田信長らとたたかう実在の人物・雑賀孫市(さいか‐まごいち)を主人公にした、司馬遼太郎の長編小説『尻啖え孫市』(しりくらえまごいち)に登場することで知られています。孫市は鉄砲を片手に本願寺門徒の大将として織田信長とたたかいますが、小説では、新堀の城は三好康長が河内の諸方に築いた城のひとつという設定になっています。新堀を司馬遼太郎は「にいぼり」とよませていますが、ここでは「しんぼり」とします。

 信長公記

 戦国時代、織田信長の家臣だった太田牛一(おおた‐ぎゅういち)という武将が晩年、『信長公記』(「信長記」、「安土記」)という軍記・伝記を著しました。織田信長の伝記には他に小瀬甫庵(おぜ‐ほあん)の『信長記』や、遠山信春(とおやま‐のぶはる)の『織田軍記』(「惣見記」、「総見記」)がありますが、いずれも『信長公記』にもとづいています。新堀城がでてくるのは『信長公記』第8巻の天正3年(1575年)「河内国新堀城被攻干並誉田城破却事」の条です。上洛をはたし、畿内統一をめざしていた信長は、石山本願寺と結んで最後まで抵抗する三好一族の最後の武将、三好笑岩(みよし‐しょうがん、三好康長)を大軍で攻めました。

 『信長公記』の記事の概略はつぎのようなものです。4月6日に京都を出発した信長は、羽曳野市古市付近にあった三好笑岩がたてこもる高屋城を攻めましたが、なかなか攻め落とせませんでした。そこで、4月12日に住吉のほうへ陣を替え、4月13日には天王寺に到り、五畿内はじめ各地の軍勢10万人余りが天王寺、木津、難波に陣取りました。そして、翌日、兵糧を絶つために石山本願寺へ押し寄せて、周辺の作毛(季節から考えると麦でしょう)をことごとく刈り取ってしまいました。つづいて4月16日、遠里小野(大阪市住吉区遠里小野と堺市堺区遠里小野付近)に陣取って、信長みずから近辺の作毛を刈り取り、4月17日から香西越後守(香西長信)、十河因幡守(十河一行)ら三好党の大将が立て籠もっている「堺の近所の新堀と申す出城」を包囲して攻めました。そして、4月19日夜、総攻撃を開始しました。諸手(しょて)でもみ合い、城に火矢を放ち、埋め草で堀を埋めました。すると、大手(おおて、城の表門)搦手(からめて、城の裏門)から切って出たので、香西越後ら大将の首を討ち取り、ついに新堀城を攻め落としました。高屋城に立て籠もっていた三好笑岩は、信長の家臣・松井友閑を介して降伏してきたので、信長は赦しました。

 泉州堺の近辺の新堀城

 この新堀の城は、『信長公記』だけでなく、『中山家記』には「泉堺之辺一城攻落之、河州高屋和睦也」、『松井家譜』には「堺之近辺新堀之砦」、『有吉家代々覚書』にも「泉州堺近辺新堀城」とあり、泉州堺の近辺にあったことは確かです。


文責・駒井守
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