約350年前からある浄土真宗のお寺です。

現住職は第15代目になります。

堀村の今昔(2)


新堀城の所在地は堺市


 海船政所記

 新堀の城は、江戸時代の初期の堺の惣年寄・高志芝巖(たかし‐しがん)が著した、堺の地誌『全堺詳志』(ぜんかいしょうし)所収の『海船政所記』(かいせんまんどころのき)にも登場します。『海船政所記』の著者・大心義統(だいしん-ぎとう)とは、明暦3年(1657年)生まれの京都の大徳寺の273世住持で、大燈国師16世の法孫です。堺の禅楽寺(廃寺)の第3世住持も務め、古記録に詳しく、『墨江紀略』(ぼっこうきりゃく、「界府墨江紀略」、「住吉古実記」)という住吉と堺の地誌も著しています。堀も、大心義統が知らない土地ではなかったと思います。文明3年(1471年)、大徳寺の養徳院は、我孫子屋次郎の遺した、堀や苅田に散在する田畠の寄進をうけて領地にしています。

 『海船政所記』のあらましは、つぎのようなものです(原文は漢文)。
 三好長輝(みよし‐ながてる、本名は三好之長、四国阿波の国人で上洛して後に摂津守護代となりました)は、永正元年(1504年)、堺の海浜に東西三百六十歩(約654メートル)、南北はその倍もある大きな館を建て始めました(以下、海船館)。海船館の中央部には、眺望のよい高楼があり、高楼には鐘や太鼓、合戦で使う陣具(じんぐ)や兵器を貯蔵し、非常時に備えました。長輝は、親戚・名士らを一ヶ月交代の輪番で当直させ、備えにはぬかりがありませんでした。長輝は京都に居て自ら執政していましたが、堺の海浜が四国との運送に適していたので、この館を本館とし、摂津の尼崎の城、和泉の新堀城と岸和田の城、河内の小山と古市の諸城に三好の諸将を配置しました。長輝の子・三好長基(みよし‐ながもと、三好元長から改名)の代にすべて完成し、大永元年(1521年)に海船館は政所の号を勅されました。

 新堀城は堺市北区新堀町

 『信長公記』には、信長は塙九郎左衛門に命じて河内の諸城をことごとく破却させたとあります。城の遺構が平成の現在も残っていることはほとんど期待できません。しかし、『海船政所記』に記された城の地名とあわせて、現存する地名から推定することが可能です。

 古市の城は、羽曳野市古市にあった高屋城で、小山の城は藤井寺市小山付近、和泉の新堀城は堺市北区新堀町付近にあったものと考えられます。そうすると、小山の城と新堀城は、三好一族が摂河泉支配の拠点としていた、堺の浜の海船館と高屋城を結ぶ長尾街道沿いに位置することになり、堺の浜に近いほうの新堀城は『信長公記』や諸家記の「堺の近所の新堀という出城」「泉州堺近辺新堀城」とおなじ城で、新堀城は堺市北区新堀町付近にあったものと推定されます。

 さらに、江戸時代中期に関祖衡(せきそこう)・並河誠所(なみかわせいしょ)らによって編纂された幕撰地誌『日本輿地通志畿内部』(にほん‐よち‐つうし‐きないぶ、略称・「五畿内志」、1735年刊)第50巻には、住吉郡の古蹟として、喜連城のほかに今井兵部が據った我孫子城、寺岡村と船堂村の堡址(ほうし、砦のあと)などをあげています。このうち船堂村は江戸時代には住吉郡に属し、現在の堺市北区新堀町(旧新堀村)は船堂村の一部でした。「五畿内志」編纂当時は城跡がのこされていたか、伝承があったものと考えられます。「堺の近所の新堀という出城」という所在地名も一致します。


文責・駒井守
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