約350年前からある浄土真宗のお寺です。

現住職は第15代目になります。

堀村の今昔(3)


堀村に新堀城はあったのか


 地名は記憶され継承される

 自治体や行政区画の名称は人為的に変わることはあっても、その土地に刻まれた地名というのはなかなか消滅しません。
 たとえば、堀や前堀という旧村名は、中世にさかのぼることができ、明治22年(1889年)に依羅村となって消滅してその大字となり、明治27年(1894年)に旧寺岡村とともに依羅村から分離して長居村となりました。大正14年(1925年)に、長居村はじめ大阪市に隣接する郡部の町村が大阪市に編入され、大字堀、大字前堀はそれぞれ、住吉区東長居町、南長居町となりました。今では、住吉区長居東となり、堀や前堀の名前は、行政区画の名称や地図上から消滅しました。長居村以外の、旧依羅村に属した苅田や我孫子、庭井などの旧村の地名は、現在も行政区画の名称として残っています。

 しかし、大阪市編入による新町名から90年経っても、地元の住民同士では長居東地域のことを堀や前堀と呼びます。地名というのは、その土地の人々に記憶され継承されていくものなので、容易に消滅するものではありません。住吉や長居という地名も、古代や中世から存在していたものです。堺市北区新堀町も、中世の五個荘に新堀村として存在し、江戸時代に船堂村の一部となり、明治時代からは五個荘村大字船堂の小字の地名として継承されてきたものです。このような地名に関する歴史的な事実から、新堀城の所在地は、堺市北区新堀町付近だと推定することができます。しかし、新堀城の所在地を長居東の旧堀村だとする説もあります。

 新堀城の所在地は堀村とする説

 お城探訪ブームを反映して、1967年に出版された『日本城郭全集』(1967、大類伸監修、全16巻、人物往来社)の第9巻は、「新堀城(大阪市住吉区東長井町)」としています(解説文中でも長居をすべて長井としています)。『新修 大阪市史』第2巻(1988、大阪市)では、根拠はまったく示されていませんが、「信長は摂津に入って大坂を攻め、和泉に転戦して堺に近い新堀城(住吉区長居東)を攻略し」(同巻659頁)となっています。2005年に建て替えられた大阪府住宅供給公社の東長居住宅の敷地の西側に「長居東の遺跡」という案内板があり、その説明文には、堀村の村内には「新堀城跡(しんぼりじょうし)伝承地(堀村集落)があります」と書かれています(城跡の読み方は「じょうせき」か「しろあと」ですが、原文のままにしておきました)。堀村には築城の伝承はありますが、それが新堀城だという伝承はありませし、新堀という地名もありません。これら新堀城の所在地は堀村だとする説は、『日本城郭全集』の解説記事の内容から判断すると、『大阪府全志』や旧東成郡役所が発行した『東成郡誌』の内容とだいぶ重なっており、『大阪府全志』の著者は、新堀城の所在地は堀村ではないかと推論しているので、これに拠ったのではないかと思われます。

 根拠は堀村の築城伝承と環濠、八尾街道

 大正11年(1922年)に出版された『大阪府全志』(井上正雄編著、全5巻)第3巻「長居村」の「大字堀」の項目には、「(堀の字地三軒家が)追分茶屋といへるは、堺と住吉とに向へる道路の分岐点なるに依る。又村名の堀は、部落の四囲に濠池を繞らせしより起れるの称ならんか。里伝に依れば、往時城のありし所にして、濠池は在城当時に掘られしものなりと伝ふ。依て思ふに左に掲記せる惣見記に、堺の近辺なる新堀と見ゆるは本地にして、本地は取出の城のありし所ならんか」として『惣見記』の抜粋(前掲『織田軍記』の第15巻「信長公南方進発所々御働事」を載せています。また、保利神社の由緒の説明で「里伝に依れば、足利時代に周防守なる者本地に城を築きて居りし時、城の守護神として勧請せしものなりといふ」としています。

 つまり、『大阪府全志』で、新堀城が住吉区長居東の旧堀村ではないだろうかと推論する根拠は、旧堀村には昔、城があって集落の周囲に環濠が残っており、その城は足利時代(室町時代)に周防守という者が築いたものとする伝承があり、堀村の追分は住吉へむかう住吉街道と遠里小野をへて堺へむかう八尾街道の分岐点となっていて、堀村にあったとされる城は、『惣見記』が「堺の近所に新堀と云取出の城あり」と記す、いわゆる新堀城だろう、というのです。

 堀村の周辺にはかつて環濠集落であった旧村がいくつもあり、前回も『五畿内志』に、住吉区我孫子の旧我孫子村や住吉区長居西の旧寺岡村、堺市北区新堀町の旧新堀村の城跡が記載されていることを紹介しましたが、「堺の近所」で八尾街道沿いという点では、我孫子村や寺岡村のほうが、堀村よりも堺に近く、もっとも近いのが新堀村です。堀村や我孫子村、寺岡村にはそこがかつて新堀城だったという伝承や新堀という地名は残されていません。『大阪府全志』で著者の井上氏が堺市北区新堀町を新堀城の所在地としなかったのは、『大阪府全志』発行当時は、新堀は五個荘村大字船堂の小字だったため、気づかなかったのかもしれません。

 ところで、堀村にはたしかに、集落の外の、西側の地域に「栴檀城」(せんだんじょう)という地名がのこっていて、わたしが小学生だったころは歴史部の顧問をされていた教頭先生から「戦国時代に、砦があったところだ」と教わりました。戦国時代の天文8年(1539年)3月15日の本願寺の証如上人の日記には、平野の光永寺門徒として堀の者が登場し、堀村にもすでに本願寺の門徒衆が形成されていたことがわかります。しかし、この堀村にあったとされる小さな砦が、たとえ新堀城だったとしても、そこに立て籠もる落ちぶれた三好一族とともに、堀の門徒衆が命がけで数万の織田信長の軍勢相手に、無闇にたたかったとはとても考えられません(『日本城郭全集』では、落城後、堀村の集落ができたのではないかとしています)。長居公園やスタジアム、自然史博物館以外に、長居東付近に史跡と認められるものが1つぐらいあってもよいと思いますが、それは胸を張って正しいと後世に伝えることができる場合に限られるでしょう。


文責・駒井守
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