堀村の釈成法(4)
堀村の釈成法(4)
戦国時代の本願寺
『本願寺史』上巻(2010、本願寺出版社)によれば、本願寺第8代宗主の蓮如(れんにょ)上人のころは「六字名号」の本尊が主流でしたが、次の実如(じつにょ)上人の時代には阿弥陀如来の絵像本尊(方便法身像)が主流となりました(同書425頁)。堀村の釈成法が本願寺第10代宗主の証如(しょうにょ)上人から「方便法身像」を下付された天文(てんぶん)6年(1537年)は、戦国時代の真っ只中でした。
荘園制の崩壊とともに、群雄割拠する戦国大名による領国支配が進展し、農民や漁民は絶え間ない戦乱の犠牲となってきました。親鸞聖人が開いた浄土真宗は、農漁民のあいだだけではなく、これまで「悪人」とされてきた、生き物を殺す者・酒を商う「屠沽下類」(とこげるい)の人びとを「れふし・あき人、さまざまのものは、みな、いし、かわら、つぶて、のごとくなるわれらなり」(『唯信鈔文意』、『浄土真宗聖典』註釈版第2版707~708頁、本願寺出版社)と呼んで、商工業者のあいだにも急速に広まりました。
また、戦国時代には武家が確立して女性の男性への隷属が強まるとともに、旧仏教によって女性は罪障が深く浄土に往生できないとされ、神道でも女人禁制など「穢れ」の思想によって女性は差別されてきましたが、蓮如上人は『御文章』の中で何回も「それ阿弥陀如来は、すでに十悪(じゅうあく)・五逆(ごぎゃく)の愚人(ぐにん)、五障(ごしょう)・三従(さんしょう)の女人(にょにん)にいたるまで、ことごとくすくひまします」(『御文章』三帖、『浄土真宗聖典』註釈版第2版1146~1148頁)と、男女等しく救済されることを説きました。
門徒の拡大とともに守護や地頭、戦国大名らの圧迫も強まり、天文元年(1532年)には山科本願寺が六角定頼(ろっかく‐さだより)や法華宗徒等により焼かれ、翌年、証如上人は寺基を大坂の石山へ移しました。摂津・河内・和泉における本願寺の勢力はいっそう拡大しました。元亀(げんき)元年(1570年)、織田信長は石山本願寺を攻め、天正8年(1580年)に本願寺が石山を退去するまでの、11年間におよぶ「石山合戦」(いしやまかっせん)がはじまりました。
門徒衆の分布
この時期の本願寺の寺院や道場、門徒衆の分布図を、峰岸純夫氏の『大名領国と本願寺教団』(1974年「日本の社会文化史2」『封建社会』所収/1984年「戦国大名論集13」『本願寺・一向一揆の研究』所収)に掲載されている「16世紀(天文期)摂津・河内・和泉 本願寺門徒分布図」および『大阪の町と本願寺』(1996年、大阪市立博物館)掲載の同「分布図」に図示さえている地名から拾って作成しました。『大名領国と本願寺教団』の分布図の真宗寺院・道場・門徒組織は「証如の『天文日記』を中心に構成」(『大名領国と本願寺教団』)して図示したものとしていています。地形図は、上記分布図の西除川が新大和川開削後の川筋となっていたため、開削以前の川筋を示す『大阪市史』附図(1926年再版、大阪市役所)所収の「大和川附替図」(木崎盛政製図)を参照しました。
平野の光永寺
前回でも紹介したように、天文8年3月15日付の日記に「河州堀者〔光永寺下〕」が登場します。分布図の摂津国の住吉(すみよし)郡に「堀」という地名があります。この光永寺というのは、現在も大阪市平野区平野本町1丁目にある浄土真宗本願寺派の寺院で、『天文日記』によく登場し、天文5年(1536年)6月15日の日記には、「平野衆」と呼ばれる光永寺の門徒200人ばかりが大坂の本願寺の普請にきたことが記されています。『大阪府全志』と『東成郡誌』によると、光永寺は蓮如上人が石山坊舎を建てたのと同じ明応5年(1496年)の創立(開基は坂上田村麿の後裔釈明鎮)となっています。その後、石山合戦の功により本山兼帯所として「平野御坊」の称を許可されていましたが、明治5年(1872年)にもとの光永寺に改称しました。
河内国の堀の者
この光永寺門徒の「河州堀者」は「河内国の堀の者」の意味ですが、どうして『大名領国と本願寺教団』や『大阪の町と本願寺』の分布図では「摂津国住吉郡」に図示されているのでしょうか。『応仁後記』巻之上「河州正覚寺城合戦畠山政長自害事」(『改訂史籍集覧』第3冊、1900年、近藤瓶城編)には、「河州正覚寺城」「河州平野城」とあります。正覚寺城(しょうがくじ‐、大阪市平野区加美正覚寺)は、河内国守護の畠山政長(はたけやま‐まさなが)が陣をおいた場所で、明応2年(1493年)に摂津など4ヵ国の守護の細川政元(ほそかわ‐まさもと)の軍に攻められて戦死し、足利義材(あしかが‐よしき、義稙)も細川政元によって将軍職を追放されました。『平野郷町誌』(1931、平野郷公益会)に掲載されている宝暦13年(1763年)の「摂州平野大絵図」を見ると、平野郷町内の北東部を摂津国と河内国の境界となっている平野川(東除川)が流れており、対岸の河内国渋川郡賀美郷に正覚寺(廃寺)が描かれています。中世の自治都市として発展してきた平野は、本来は摂津国の住吉郡に属しているのですが、中河内地域の交通や流通の中心として河州として認識されることもあったようです。摂津国住吉郡の堀村も河内国との国境に接していますので、河州と誤認された可能性もすてきれませが、摂津国住吉郡の堀村の南東3キロメートルには河内国丹北郡の堀村が存在します。
河内国丹北郡の堀村
河内国丹北郡の堀村は、現在の松原市天美南4丁目、5丁目の堀地区にあたります(「分布図」の丹北郡の赤い●印)。寛文2年(1662年)、宝憧の創建(『大阪府全志』第4巻670頁には寛文9年創立、法道の開基とする)した真宗大谷派の貞正寺(ていしょうじ)があります。集落の西側を西除川(狭山池西除筋天道川)が北流し、西除川の西には依羅池除筋の駒川(巨摩川)、東には排水用水路の今川が流れ、大和川付け替え以前はこの三本の川が平野川と合流していました。大和川付け替え後は、西除川は川筋を西へ変えられてJR浅香駅付近で新大和川に合流し、新大和川以北の旧西除川は埋められて新田開発されました。文禄3年(1594年)に長束大蔵大輔の検地をうけており(『松原市史』資料集第8号)、堀遺跡からは奈良時代の水田の遺構などがみつかっていますので(『古代西除川沿いの集落景観』「堀遺跡」、2010、狭山池博物館)、古くから存在する集落であることはまちがいないでしょう。
「永光寺門徒」は「光永寺門徒」の誤り?
『大名領国と本願寺教団』によると、摂・河・泉における真宗寺院・道場・門徒組織の分布は、武庫川・猪名川筋、淀川・神崎川筋、大和川筋、堺および泉南海岸地域の四つに区分され、本願寺教団の教線の発展は、河川・海上の流通路と関連する水運業者・労働者(船頭)・商人・手工業者などが集住するところに真宗の信仰が広まり、門徒組織(講)が形成されていったと考えられるとしています。また、『中世社会と一向一揆』(1985、吉川弘文館)所収の『久宝寺寺内町と河内門徒』(上場顕雄)では、旧大和川筋に散在し久宝寺寺内町に連なる門徒衆を『天文日記』から抽出し、八尾街道沿いでは摂津の平野衆(光永寺)、田島衆、長居衆をあげていますが、そこに八尾街道沿いある住吉郡の堀村の名はありません。そうすると、『天文日記』に登場する「河州堀」は西除川や平野川を通じて平野の光永寺や大坂の本願寺に舟運があったと思われる河内国丹北郡の堀村である可能性がますます高くなり、無理に摂州住吉郡堀村と結びつける必要がなくなります。そして、摂州住吉郡堀村の釈成法が天文6年に証如上人から授かった「方便法身像裏書」に「永光寺門徒」とあるのは、証如上人が「光永寺」を「永光寺」と書き間違ったからではないか、などと悩む必要もなくなります(この「永光寺」と堀村、現在の瀧光寺との関係については、機会があれば「堀村の今昔」で取り上げたいと思います。
『天文日記』に記されていなくても、住吉郡の堀村周辺には寺岡村の真光寺と西法寺(いずれも浄土真宗本願寺派、以下本願寺派と略す)、遠里小野村の安養寺(本願寺派)、我孫子村の圓満寺(本願寺派)、苅田村の西光寺(真宗大谷派、以下大谷派と略す)、庭井村の引接寺(大谷派)、杉本村の光明寺(本願寺派)と圓覚寺(大谷派)など、戦国時代に創建されたと伝えられる寺院が数多く存在しており(『大阪府全志』『東成郡誌』の当該寺院の記述によります。各寺院の所属教団は平成26年度『大阪府宗教法人名簿』によります)、古くから本願寺の門徒組織が形成されていたものと考えられます。
次回は、摂州住吉郡堀村の釈成法が下付された「方便法身像裏書」が、なぜ富山県に伝わっているのか、考えてみたいと思います。
文責・駒井守