堀村の釈成法(4)
堀村の釈成法(5)
堀村の釈成法(5)
塩硝技術者・釈成法
本願寺第10世証如上人が摂州住吉郡堀村の釈成法に授けた「方便法身像裏書」が、なぜ『富山県史』や『越中真宗史料』に収録されているのでしょうか。「堀村の釈成法(3)」でも書きましたが、『富山県史』史料編2「附録」の「銘文抄」には、「この裏書は『真宗五箇山史』より採録」となっていましたので、国立国会図書館所蔵の『真宗五箇山史』(しんしゅう‐ごかやま‐し、1966、1967修補版、高桑敬親氏による謄写版)を見てみました。すると、そこには堀村の釈成法に関する意外な事実がありました。
釈成法が生きた時代
『真宗五箇山史』の内容にふれる前に、釈成法が生きた戦国時代についてごく簡単に記します。室町幕府の管領(かんれい)畠山氏の家督をめぐる争いに幕府や細川氏、山名氏など守護大名が加わって東西両軍に分れ、京都は双方の軍勢が入り乱れてたたかう戦場となりました。この応仁・文明の乱(おうにん‐ぶんめいの‐らん、1467年~1477年、応仁の乱)の結果、室町幕府の守護にたいする統制は崩壊し、戦国時代がはじまりました。日本各地で下剋上(げこくじょう)にもとづく戦国大名が登場し、覇権をめぐって争奪を繰り広げるという戦国争乱の時期が1世紀もつづきました。
北陸の戦国時代と浄土真宗
北陸地方では、本願寺第8世宗主蓮如(れんにょ)上人が巡錫(じゅんしゃく)し、越前で吉崎(よしざき)御坊(福井県あわら市)を創立したのが文明3年(1471年)のことでした。以後、浄土真宗が越前・加賀・能登・越中の地で勢力を拡大しました。戦国大名たちは、北陸各地の荘園を自国の領土とし、荘園のなかからは惣村(そうそん)が生まれてきました。蓮如はこの惣村の農民などに門徒を拡大し、門徒たちは、本願寺を中心に団結しました。加賀では、長享2年(1488年)に門徒を中心とする農民や国人たちの一向一揆によって守護大名の富樫政親(とがし‐まさちか)が攻め滅ぼされました。その後90年間「近年ハ百姓ノ持タル国ノヤウニナリ行キ候」(先啓編『実悟記拾遺』、『真宗全書』続編第18巻130頁)とよばれるほど、北陸地方では一大勢力となりました。そして、本願寺は武田信玄、上杉謙信、浅井長政、朝倉義景、織田信長などの戦国大名との政治的軍事的攻防に否が応でも直面することになりました。
本願寺を支援した五箇山
越中の五箇山(富山県南砺市)は、上梨谷・下梨谷・小谷(旧平村)、赤尾谷(旧上平村)、利賀谷(旧利賀村)の5地域の名称で、隣接する岐阜県の白川郷とともに合掌造り集落として世界文化遺産に登録されている観光地です。戦国時代、蓮如上人の直弟で赤尾の道宗や利賀(とが)の明栄が行徳寺(南砺市西赤尾)、西勝寺(南砺市利賀村)などを開山しました。以来、集落ごとに道場がつくられ、浄土真宗の寺院数の多さから「真宗王国」といわれる富山県でも、とくに信仰が篤い地域となっています。『本願寺史』上巻(2010、本願寺出版社)によると、戦国時代の本願寺教団は直参身分の者と非直参身分の者の二つに大別され、直参身分の者にはほとんどの場合、宗主の御影が授与されました。直参身分の者は本山年中行事などに出仕し、何らかの役を担い、宗祖あるいは宗主の眼前にじかに参ずることが必要で、たとえば宗祖直弟という由緒だけでは直参身分を象徴する宗主御影は授与されませんでした。越中では五箇山衆は河上衆とともに本願寺の直参として、実如宗主の葬儀や蓮如宗主年忌法要の非時(ひじ)頭役(とうやく)という重責を担っていました。
石山本願寺が釈成法らを越中五箇山へ派遣
さて今回の本題ですが、『真宗五箇山史』には、元亀(げんき)元年(1570年)に織田信長が石山本願寺を攻めた「石山合戦」がはじまったとき、本願寺が金沢の尾山御坊(おやまごぼう、御山御坊、御坊跡地には金沢城が築かれた)へ鉄砲を送り、その火薬や火縄の原料となる塩硝(えんしょう、焔硝、硝酸カリウム結晶の硝石)を製造するための技術者を五箇山(現在の富山県南砺市)へ派遣したと書かれています。その傍証として、五箇山には「摂州住吉郡堀村願主釈成法」に授与された本願寺第10代宗主証如の花押のある本尊裏書のほかに「摂州西成郡北野村釈良山」に授与された第11代宗主顕如の花押のある本尊裏書が伝わっていることをあげています(摂州西成郡北野村の位置は、前回「堀村の釈成法(4)」「門徒分布図」の赤い●印を参照)。また、西勝寺が加賀の人で洲崎恒念という人物を連れて大阪の堺へ行き、塩硝製造法の講習を受けて五箇山へ帰ったとも書かれています(『真宗五箇山史』修補版20頁)。
摂州西成郡北野村の釈良山とともに塩硝製造の技術者として本願寺から五箇山まで派遣された堀村の釈成法は、門徒の証明となる大切な「方便法身像裏書」を携えて行き、それが現在も五箇山に伝わっているということなのでしょう。しかし、『真宗五箇山史』のこの部分は『富山県史』など地元の郷土史にはほとんど取り上げられていません。日本史における鉄砲伝来とその普及、塩硝製造の起源に関わる重要な問題ですので、なおさらこうした伝承は史料よりも軽視されることになります。「堀村の今昔」の第4回では「長居村の地名」として堀の「鉄砲島」(てっぽうじま)を取り上げ、「周辺の村からも離れた場所ですので、人家を避けて鉄砲の試射をしたところでしょうか」と推定しました。この鉄砲島の地名と、塩硝製造の技術者として本願寺から五箇山へ派遣された堀村の釈成法の話は、偶合(ぐうごう)にすぎないのでしょうか。
文責・駒井守